
敷島神社の歴史
敷島神社は、当地の浅間神社に、字市場の村社の村山稲荷神社・星野稲荷神社と無格社の水神社の三社を明治40年に合祀、社名を敷島神社と改称して成立したといいます。浅間神社は、田子山塚と呼ばれていた塚から引又町の高須庄吉が暦応3年(1340)の板碑を発見し、明治5年に富士塚として造成したといいます。

創建と合祀の経緯
敷島神社は、明治40年(1907年)に浅間神社を中心として、以下の3つの神社を合祀して成立しました。
- 村山稲荷神社(字市場の村社)
- 星野稲荷神社(字市場の村社)
- 水神社(無格社)
この際、社名を「敷島神社」に改めています。

社名の由来
敷島神社の名前は、浅間神社の祭神・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)にちなんでいます。本居宣長の和歌から「敷島(しきしま)」の語を取ったとされています。
「敷しまの倭こころを人とはは朝日ににほふ山さくら花」

浅間神社と田子山富士
敷島神社の境内には、田子山富士(富士塚)があります。
- 暦応3年(1340年)
僧・承海十瀧房(しょうかい じゅうろくぼう)が建立した板碑が発見され、富士信仰と関係の深い場所であったことが判明しました。 - 明治5年(1872年)
引又町の高須庄吉がこの板碑をもとに富士塚を造成し、浅間神社として祭祀を行うようになりました。

各合祀神社の由来
- 村山稲荷神社:元禄14年(1701年)にはすでに記録があり、武蔵七党の村山家が箱根ヶ崎から移住した際に稲荷神社を勧請したと伝えられています。
- 星野稲荷神社:星野家の総本家の地所に祀られていた神社。
- 水神社:新河岸川の引又河岸近くにあり、舟運の安全を祈願して建てられた神社。

神職と管理
明治8年(1875年)に摩訶山般若院の住職が復飾し、「水宮法徳」として敷島神社の神職を務めるようになりました。
現在の敷島神社
現在も地元の人々に親しまれ、歴史的・文化的な価値を持つ神社として信仰されています。