
敷島神社の歴史
敷島神社は、埼玉県志木市本町に鎮座する地域の産土神(うぶすながみ)として、古くから氏子の信仰を集めてきました。当社の創建は明治四十一年(1908)、田子山富士塚に鎮座していた浅間神社の境内に、村山・星野両稲荷社および水神社を合祀し、当地・引又地区(現・本町)の鎮守として「敷島神社」として整備されたことに始まります。
天保十四年(1843)の『明細帳』には、浅間神社が田子山塚の頂上に建てられた板碑を御神体としていたことが記されており、当地における信仰の歴史はそれ以前から存在していたことがうかがえます。
「敷島神社」の社名は、江戸中期の国学者・本居宣長の詠んだ和歌に由来しています。
「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」
この和歌に詠まれた「敷島・大和・朝日・桜花」の言葉は、当社の主祭神・木花開耶姫大神(このはなさくやひめのおおかみ)のご神徳と深く通じており、日本人の精神文化を象徴する言葉として、社名に選ばれました。

ご祭神とその由緒
木花開耶姫大神(このはなさくやひめのおおかみ)
富士山の女神として知られ、桜の精の神ともされる美しき神。天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃であり、その御子には海幸彦・山幸彦などの神々が含まれます。山幸彦こと火遠理命(ほおりのみこと)は、初代天皇・神武天皇の祖父にあたる神です。
倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)
稲をはじめとする穀物を司る神で、生活全般の豊かさをもたらす存在。伊勢神宮外宮の豊受大神と同一神とされ、五穀豊穣・商売繁盛のご利益があります。
岡象女大神(みずはのめのおおかみ)
水を司る女性の竜神で、万物を育む清らかな力を持つ神。古くは柳瀬川の流域に祀られ、地域の水運や農耕に深く関わってきました。

ご神徳
敷島神社は、以下のような多岐にわたるご神徳を持つ神々をお祀りしています。
- 家内安全
- 五穀豊穣
- 商売繁盛
- 縁結び
- 安産祈願
- 学業成就
- 交通安全
- 所願成就

田子山富士塚の由来と浅間信仰
敷島神社の境内にある田子山富士塚は、地域では「志木のお富士さん」として親しまれており、その由来は七世紀後半に築かれた円墳にあります。明治五年(1872)、志木の醤油醸造業者・高須庄吉氏が霊夢を得て墳丘を登ったところ、暦応三年(1340)の逆修板碑を発見。これに感銘を受けた高須氏は富士塚の築造を発願し、地域の氏子や舟運関係者の協力のもと、総高約十メートルの富士塚を完成させました。
富士塚の頂上には、木花開耶姫大神を祀る浅間神社(上社)が設けられ、また、ふもとには発見された板碑を御神体とした下浅間神社も建立されました。これにより当地における富士信仰は確固たるものとなり、今も多くの参拝者が訪れています。

神社合祀と敷島神社の成立
明治四十年(1907)、政府の「神社合祀令」により、地域の小社を統合する政策が推進されました。これにより、木花開耶姫大神を主神とする浅間神社に、倉稲魂大神(村山・星野稲荷社)および岡象女大神(水神社)を合祀し、現在の敷島神社が正式に成立しました。
なお、水神としての岡象女大神は、少なくとも江戸初期より、柳瀬川が新河岸川に合流する地点近くで「譲殿権現(ずうどのごんげん)」として信仰されており、その由緒は『舘村旧記』(享保期)にも記されています。

境内の摂末社
- 下浅間神社:田子山富士塚の麓に鎮座し、発見された逆修板碑を御神体としています。敷島神社の起源に連なる重要な社です。
- 琴比羅神社:大物主大神を祀り、縁結び・家庭円満・商売繁盛の神徳を有します。
- 鷲神社:安政の大洪水の際、当地に漂着したご神体を祀ったとされる社。または、鷲宮神社より勧請されたと伝わります。
- 敷島稲荷神社:倉稲魂大神を祀り、稲の生育や命の根源に通じる力を授ける社。
- 護国神社:明治以降の戦没者の英霊を慰霊し、感謝を捧げる社。
- 敷島子安神社:縁結び・子授け・安産の御神徳を持ち、玉石を撫でることでご利益があるとされています。
現在の敷島神社
現在も地元の人々に親しまれ、歴史的・文化的な価値を持つ神社として信仰されています。